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ほんのむしがなぞったことば

2222-02-22このページについて

読んだ本やマンガのなかから、心に響いた言葉、なるほどと思った言葉、ひっかかりをおぼえた言葉などをメモしていきます(「過去日記」となっているものは、実際に読んだ日付とは少しずれている場合あり)。

メインの日記もはてなダイアリーです。

2009-02-06医師チェーホフ

[]#365

 すっかりお腹が一杯になったので、散歩に出かけた。ドア越しに一部が見えていた病室には、さっき目にした二人のほかに、さらに四人の患者がいた。なかの一人がパーシカの注意をひいた。彼は背が高くてがりがりにやせた、毛むくじゃらの陰気な顔をした農夫だった。男は寝台に腰をかけ、振り子のように休みなくうなずいては右手を振っている。パーシカは長いことこの男から目を離さなかった。初めは、振り子のリズムを刻む男のうなずきも、ごく普通に皆を面白がらせるためにやっていることだと、パーシカには思えた。だがその顔をのぞきこんで、パーシカはとても怖くなった。この人が、耐え難いほど苦しみ病んでいると分かったからだ。パーシカは三番目の病室を通りながら、粘土を塗りたくったように赤黒い顔をした二人の男を目にした。彼らは身動きもせずに寝台に腰かけている。顔の輪郭もはっきりしないのは、異教の神々にそっくりだ。
 「おばさん、この人たちは、なぜこんななの?」パーシカは付添婦にたずねた。
 「坊や、あの人たちは天然痘なのよ」
 自分の病室に戻ったパーシカは、寝台に坐って先生を待った。マヒワを捕まえに言ったり、縁日に出かけたりするために。でも、先生は来てくれない。ドアから一部が見える隣りの病室に、准医師の姿がちらりと見えた。彼は、頭に氷嚢を乗せた病人におしかぶさるよう身をかがめ、大声で呼びかけた。
 「ミハイロ」!
 眠っているミハイロは身じろぎもしない。准医師は、あきらめたように手を振って行ってしまった。先生を待っている間、パーシカは隣りの老人をよくよく眺めた。老人はのべつ咳き込み、壷に痰をはいていた。きしんで長く尾を引く痰だった。老人には一つ特別なことがあった。パーシカはそれが気に入った。咳をしながら息を吸い込むと、胸のなかで何かがヒューヒュー音を立て、色とりどりの音が歌を唱うのである。
 「おじいちゃん、何が鳴っているの?」パーシカはきいてみた。
 老人は何も応えなかった。パーシカは少し待ってから、またたずねた。
 「おじいちゃん、キツネはどこにいるの?」
 「どんなキツネかな?」
 「生きてるキツネだよ」
 「どこにいるかって? 森の中さ!」(p.30-31)


少年たち (チェーホフ・コレクション)

[]#366

シルヴィア・ピーチの貸し出し文庫を見つけて以来、私はツルゲーネフの全作品、ゴーゴリの英訳本、コンスタンス・ガーネット訳のトルストイ、それにチェーホフの英訳本を読み終えていた。まだパリにやってくる前、トロントにいた頃、キャサリン・マンスフィールドはいい短編作家だ、いや偉大な短編作家だとすら聞かされていた。けれども、チェーホフのあとで彼女の作品を読むと、優れた純朴な作家でもある明晰で世故に長けた医師の作品と比べて、若いオールド・ミスが注意深く織り上げた人工的な物語を聞かされる観があった。マンスフィールドは低アルコールビールのようなものだった。水を飲むほうがまだマシだ。その点、チェーホフは水のように澄んではいるものの、水ではなかった。ジャーナリスティックな文章としか思えない作品もあったが、素晴らしい作品もあった。(p.184)


移動祝祭日 (新潮文庫) [ アーネスト・ヘミングウェイ ]

*1:「小さな逃亡」。

2009-02-05霧の中

[]#364

僧正は外国に住んでいたころ自分がミサを行なっていた、建立まもない白い聖堂のことを思い出した。暖かい海のざわめきがよみがえってきた。住いは天井が高くて明るい部屋ばかり5部屋もあって、書斎には新しい机と大きな書棚がそなわっていた。たくさん本を読んで、たくさん書き物もした。故郷が恋しかったことも思い出した。毎日、彼の窓辺に盲目の女乞食がやって来て、恋の歌をうたい、ギターを弾いてくれたものだった。ギターを聞きながら彼が思い出すのは過ぎた昔のことばかりだった。8年が過ぎて、彼はロシアへ呼び戻され、今はこうして副主教の地位におさまっている。過去はどこか遠くの霧の中へ去ってしまい、まるで夢を見たようだ……(p.31-32)


rakuten:book:13079472

2009-02-04くるくると輪になって

[]#363

一人の若い女性が店に入ってきて、窓際の席に腰を下ろした。とてもきれいな娘で、もし雨に洗われた、なめらかな肌の肉体からコインを鋳造できるものなら、まさしく鋳造したてのコインのような、若々しい顔立ちをしていた。髪は烏の羽根のように黒く、頬に斜めにかかるようにきりっとカットされていた。

ひと目彼女を見て気持が乱れ、平静ではいられなくなった。いま書いている短編でも、どの作品でもいい、彼女を登場させたいと思った。しかし、彼女は外の街路と入口双方に目を配れるようなテーブルを選んで腰を下ろした。きっとだれかを待っているのだろう。で、私は書きつづけた。

ストーリーは勝手にどんどん進展していく。それについていくのがひと苦労だった。セント・ジェームズをもう一杯注文した。顔をあげるたびに、その娘に目を注いだ。鉛筆削り器で鉛筆を削るついでに見たときは、削り屑がくるくると輪になってグラスの下の皿に落ちた。

ぼくはきみに出会ったんだ、美しい娘よ。きみがだれを待っていようと、これっきりもう二度と会えなかろうと、いまのきみはぼくのものだ、と私は思った。きみはぼくのものだし、パリのすべてがぼくのものだ。そしてぼくを独り占めにしているのは、このノートと鉛筆だ。

それからまた私は書きはじめ、わき目もふらずストーリーに没入した。いまはストーリーが勝手に進むのではなく、私がそれを書いていた。もう顔をあげることもなく、時間も忘れ、そこがどこなのかも忘れて、セント・ジェームズを注文することもなかった。セント・ジェームズにはもう飽きていて、それが意識にのぼることもなかった。やがてその短編を書きあげると、ひどく疲れていた。最後の一節を読み直し、顔をあげてあの娘を探したが、もう姿は消えていた。ちゃんとした男と出ていったのならいいな、と思った。が、なんとなく悲しかった。

その短編を書き終えたノートを内ポケットにおさめてから、ボルテュゲーズ牡蠣を一ダースと辛口の白ワインをハーフ・カラフで持ってきてくれ、とウェイターに頼んだ。短編を一つ書き終えると、きまってセックスをした後のような脱力感に襲われ、悲しみと喜びを共に味わうのが常だった。これはとてもいい作品だという確信があった。が、その真価が本当にわかるのは、翌日それを読み返したときなのだ。(p.16-18)


移動祝祭日 (新潮文庫) [ アーネスト・ヘミングウェイ ]

2009-02-03鮫鮫鮫

[]#362

俺を欺し、俺を錯乱させ、まどわす海。
 だが、俺は知っている。ふざけてはこまります。海をほのじろくして浮上がってくるもの。奈落だ。正体は、鮫のやつだ。
鮫は、ほそい菱形の鼻の穴で、
俺のからだをそっと物色する。

奴らは一斉にいう。
友情だ。平和だ。社会愛だ。
奴らはそして縦陣をつくる。それは法律だ。与論だ。人間価値だ。
糞、又、そこで、俺達はバラバラになるんだ。(p.252)
鮫。
鮫は、しかし、動こうとはしない。
奴らは、トッペンのようなほそい眼つきで、俺たちの方を、藪に睨んでいる。
どうせ、手前は餌食だよといわぬばかりのつらつきだが、いまは奴ら、からだをうごかすのも大儀なくらい、腹がいっぱいなのだ。
奴らの胃のなかには、人間のうでや足が、不消化のまゝでごろごろしている。
鮫の奴は、順ぐりに、俺へ尻をむける。

そのからだにはところどころ青錆が浮いている。
破れたブリキ煙突のように、
凹んだり、歪んだりして、
なかには、あちらこちらにポツポツと、
銃弾の穴があいているのもある。
そして、あたらしいペンキがぷんぷん臭っている。
糞、又、そこで、俺達はバラバラになるんだ。

鮫。
鮫。
鮫。
奴らを詛おう。奴らを破壊しよう。
さもなければ、奴らが俺たちを皆喰うつもりだ。(p.254-256)


アジア無銭旅行 (ランティエ叢書 (18))

*1:「鮫」。

2009-02-02船旅

[]#361

しかし、格別ななにごとも、変った事態にはならなかった。ペルシャ湾上を走る船の底で、僕は、うとうとしながら奇妙な夢ばかりみた。船底にいっぱい鰐が貼りついていたり、その鰐の一つが、風抜き窓のガラスを突破ってながい鼻づらをつきだすのを、みんなで部屋にひっぱりこみ、鞄やハンドバッグをつくる夢とか、海のそこに電柱がならんで通りすぎてゆく夢とか、どれにも、旅愁とか、物哀しいおもいとかが、絡みつこうとして、絡みそこなって流されてぴらぴらと揺れていた。夢のなかの海底は白と黒の世界で、腹をみせて驔〔あかえい〕が、何千ともなくひらめきながら上昇するのをみた。男は、前面の取材として置かれたいかなる女にも、それぞれの見どころと哀歓をさがし出せるもののようだ。好悪はいかほど頑ななものでも、過去のなにかの経験から尾をひいているもので、それじしんとしてはいわれのないもののようだ。好き嫌いの激しい男は不幸であるが、よいものねだりをする女のほうは、魅惑的である。「男が一人前になるのは、突きまぜて百人の女が一人の女にみえはじめるときである」と、誰かが言っていた。(略)

中国人と日本人の差別は、彼ら四人の留学生たちにとっては問題かもしれないが、僕には、男と女でしか人間の区別がつけられず、その他のタブーは、僕にとっては恐怖でしかなかった。彼女らが、僕ら日本人に手榴弾を投げ、僕ら日本人仲間が、彼女らを強姦したあと、銃剣で突刺しながら奥へ、奥へ、踏みこんでいった。数年後をもってはじまる怖るべき事態を、僕は、ゆめにも想像してはいなかった。むしろ、排日をめざして、軍事教育を受けに渡仏する彼や、彼女の方が、はっきり現実を見ていたにちがいなかった。(p.155-157)


アジア無銭旅行 (ランティエ叢書 (18))

*1:『ねむれ巴里』から採録。

2009-01-29越境する言葉

[]#360

日本からニューヨークへ行くようになって、ニューヨークの郊外に住んで、「都会」としてはニューヨークしかなかった頃には一度も感じなかった魅力を覚えるようになった。

その魅力はノスタルジヤやなつかしさとはほとんど関係がない。ニューヨークは奇妙なほどにぼくの目に輝きだした。

きわめてシニカルニューヨークの友人にその話をしたら、「こんな街がおまえの目に輝くのは、おまえが犯罪とゴミと、第一次世界大戦前から一度も修理されていない水道パイプと毎日戦わなくてすむからだ」と言われた。

そんな意見は、アメリカから日本へと、あらゆる機会をつかんで何度も何度も飛んできていた頃に、あるシニカル東京人から言われた「おまえは朝から晩までサラリーマンの生活をしなくてすむからこんなゴミゴミした街に魅力を感じるのだ」といういやみと、どこか類似しているところもあるかもしれない。

(略)

しかし、ニューヨーカーの反論の中には、「実生活が不便」とか「家賃が高い」とかいう東京人の「苦情」とはまた別の響きがある。マンハッタン人の、自分たちの生活環境をめぐる自虐的なユーモアの中には、「実生活」というものの具体性を否定している響きがある。ニューヨークの「輝き」は抽象化された生活のつやである。ストレートにほめるとすぐ反論をぶつけてくるという辛辣なシニシズムも、きっと「具体」をよけるための修辞の戦略に違いない。ニューヨーカーは、本当は1919年ベルサイユ条約この方修理されていない水道パイプを大した問題だとは思っていないだろう。

若い頃、ぼくはそんな中傷的な輝きから逃げることばかりを考えていた。日本語の具体性、特に日本語の長くて入りくんだ歴史の中で抽象をきらい、抽象の器としての看護を排除した「大和ことば」、いわゆる「和文脈」に魅かれた理由の一つには、それがニューヨークの光から最も遠いものとして感じられたかもしれない。

ニューヨークからは短篇小説も長編小説も現代詩も生まれる。俳句も生まれるかもしれない。しかし、短歌だけは生まれない。(p.3-5、ゴシックは原文では傍点)

ぼくにとっての日本語の美しさは、青年時代におおよその日本人が口にしていた「美しい日本語」とは似ても似つかなかった。日本人として生まれたから自らの日本語の特性として日本語を共有している、というような思いこみは、ぼくの場合、許されなかった。純然たる「内部」に、自分が当然のことのようにいるという「アイデンティティ」は、最初から与えられていなかった。そしてぼくがはじめて日本に渡った昭和40年代には、生まれた時からこのことばを共有しない者は、いくら努力しても一生「外」から眺めて、永久に「読み手」であることが運命づけられていた。母国語として日本語を書くか、外国語として日本語を読んで、なるべく遠くから、しかしできれば正確に、「公平に」鑑賞する。

あの図式がはじめて変わったのは、もちろん、ぼくのように西洋出身者が日本語で書きはじめたからではない。その前に、日本の「内部」に在しながら「日本人」という民族の特性を共有せずに、日本語のもうひとつ苛酷な「美しさ」をかち取った人たちがいたからだ。(p.14-15)

「外」から日本に入る結果として、その「日本」について日本語で書くとき、二つのテーマがどこか、必然的に、浮かび上がってくる。一つは広い意味での「言霊」――日本語のアニミズムの深層――であり、もう一つは広い意味での「排他」――あらゆる共同体に付随する「内」と「外」をめぐる執拗な差別性――である。一つのテーマは本質的に「詩」、もっと正確にいえば「歌」と共通するものであり、もう一つは本質的に「政治」。あるいは最近の西洋のノンフィクションの大きな部分を占めてきた「日本論」と通底するものである。一つは、三島由紀夫的に「右」でなければならない、とすれば、もう一つは、在日朝鮮文学的に「左」でなければならない。今、その二つの要素がなければ「日本にいる」ことを書いた文学は成り立たない、とぼくは思っている。特に、西洋出身者が「日本」を書く場合、「詩」へ傾けすぎると小泉八雲のレベルに陥りやすく、「排他」を英語で書けばたとえばウォルフェレンが象徴するような「日本論」のたぐいになりかねない。文化肯定と民族主義批判という、一見相容れないような二つのプロジェクトをある緊張感をもって同時に行なうことを可能ならしめるのは、小説という形式だけではないだろうか。

単一民族」という幻想の下で、日本国内の言論における「日本像」が妙に日本人自身が小泉八雲に扮したかのような自己オリエンタリズムに陥った時代。そして経済大国の出現によって、ウォルフェレンが代表しているような「システム」批判が西洋の「日本像」の大部分を占めるようになった時代。そんな時代に、ぼくの小説が船出してしまったのである。(p.44-45)

1980年代後半、日本語は外からの越境者との関係のなかで、さらに豊かになるだろうと考える日本の文学者が、少数ながら現われはじめた。中上健次のように、「おまえも一緒に書け」とぼくを焚き付けておきながら、作品に容赦ない批判を浴びせた人もいた。日本語に対するガイジンの思い込みにすぎないという中傷は一度も聞かなかった。二十年近く日本語を書けない欲求不満のかたまりでいたぼくにとって、それはいちばんうれしいことだった。

文学の世界では、文化の外から内へというこの越境の動きが、地球上のあちこちでほぼ同時に起こった。英文学では、サルマン・ラシュディカズオ・イシグロ、ベン・オクリといった、アングロサクソンの一員でない作家たちが、生粋のイギリス人として生まれた作家よりも独創的な作品を発表するようになった。日本人の多和田葉子ドイツ語で小説を書き、「私はドイツ語の歴史をつくっている」と発言した。彼女のコメントを感動をもって読んだのは、ぼく一人ではなかったはずである。

さらに正確を期していえば、越境は、ある文化の外部にいる者にだけ起こるのではない。日本人として生まれた人でも、日本語を書くためには、一度「外国人」にならなければだめなのだ。「当たり前な日本語」の「外」に立って、自分の言葉に異邦人として対する意識をもたなければよい作品は生まれない。(p.161-162)


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