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ほんのむしがなぞったことば

2009-02-02船旅

[]#361

しかし、格別ななにごとも、変った事態にはならなかった。ペルシャ湾上を走る船の底で、僕は、うとうとしながら奇妙な夢ばかりみた。船底にいっぱい鰐が貼りついていたり、その鰐の一つが、風抜き窓のガラスを突破ってながい鼻づらをつきだすのを、みんなで部屋にひっぱりこみ、鞄やハンドバッグをつくる夢とか、海のそこに電柱がならんで通りすぎてゆく夢とか、どれにも、旅愁とか、物哀しいおもいとかが、絡みつこうとして、絡みそこなって流されてぴらぴらと揺れていた。夢のなかの海底は白と黒の世界で、腹をみせて驔〔あかえい〕が、何千ともなくひらめきながら上昇するのをみた。男は、前面の取材として置かれたいかなる女にも、それぞれの見どころと哀歓をさがし出せるもののようだ。好悪はいかほど頑ななものでも、過去のなにかの経験から尾をひいているもので、それじしんとしてはいわれのないもののようだ。好き嫌いの激しい男は不幸であるが、よいものねだりをする女のほうは、魅惑的である。「男が一人前になるのは、突きまぜて百人の女が一人の女にみえはじめるときである」と、誰かが言っていた。(略)

中国人と日本人の差別は、彼ら四人の留学生たちにとっては問題かもしれないが、僕には、男と女でしか人間の区別がつけられず、その他のタブーは、僕にとっては恐怖でしかなかった。彼女らが、僕ら日本人に手榴弾を投げ、僕ら日本人仲間が、彼女らを強姦したあと、銃剣で突刺しながら奥へ、奥へ、踏みこんでいった。数年後をもってはじまる怖るべき事態を、僕は、ゆめにも想像してはいなかった。むしろ、排日をめざして、軍事教育を受けに渡仏する彼や、彼女の方が、はっきり現実を見ていたにちがいなかった。(p.155-157)


アジア無銭旅行 (ランティエ叢書 (18))

*1:『ねむれ巴里』から採録。