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ほんのむしがなぞったことば

2009-02-06医師チェーホフ

[]#365

 すっかりお腹が一杯になったので、散歩に出かけた。ドア越しに一部が見えていた病室には、さっき目にした二人のほかに、さらに四人の患者がいた。なかの一人がパーシカの注意をひいた。彼は背が高くてがりがりにやせた、毛むくじゃらの陰気な顔をした農夫だった。男は寝台に腰をかけ、振り子のように休みなくうなずいては右手を振っている。パーシカは長いことこの男から目を離さなかった。初めは、振り子のリズムを刻む男のうなずきも、ごく普通に皆を面白がらせるためにやっていることだと、パーシカには思えた。だがその顔をのぞきこんで、パーシカはとても怖くなった。この人が、耐え難いほど苦しみ病んでいると分かったからだ。パーシカは三番目の病室を通りながら、粘土を塗りたくったように赤黒い顔をした二人の男を目にした。彼らは身動きもせずに寝台に腰かけている。顔の輪郭もはっきりしないのは、異教の神々にそっくりだ。
 「おばさん、この人たちは、なぜこんななの?」パーシカは付添婦にたずねた。
 「坊や、あの人たちは天然痘なのよ」
 自分の病室に戻ったパーシカは、寝台に坐って先生を待った。マヒワを捕まえに言ったり、縁日に出かけたりするために。でも、先生は来てくれない。ドアから一部が見える隣りの病室に、准医師の姿がちらりと見えた。彼は、頭に氷嚢を乗せた病人におしかぶさるよう身をかがめ、大声で呼びかけた。
 「ミハイロ」!
 眠っているミハイロは身じろぎもしない。准医師は、あきらめたように手を振って行ってしまった。先生を待っている間、パーシカは隣りの老人をよくよく眺めた。老人はのべつ咳き込み、壷に痰をはいていた。きしんで長く尾を引く痰だった。老人には一つ特別なことがあった。パーシカはそれが気に入った。咳をしながら息を吸い込むと、胸のなかで何かがヒューヒュー音を立て、色とりどりの音が歌を唱うのである。
 「おじいちゃん、何が鳴っているの?」パーシカはきいてみた。
 老人は何も応えなかった。パーシカは少し待ってから、またたずねた。
 「おじいちゃん、キツネはどこにいるの?」
 「どんなキツネかな?」
 「生きてるキツネだよ」
 「どこにいるかって? 森の中さ!」(p.30-31)


少年たち (チェーホフ・コレクション)

[]#366

シルヴィア・ピーチの貸し出し文庫を見つけて以来、私はツルゲーネフの全作品、ゴーゴリの英訳本、コンスタンス・ガーネット訳のトルストイ、それにチェーホフの英訳本を読み終えていた。まだパリにやってくる前、トロントにいた頃、キャサリン・マンスフィールドはいい短編作家だ、いや偉大な短編作家だとすら聞かされていた。けれども、チェーホフのあとで彼女の作品を読むと、優れた純朴な作家でもある明晰で世故に長けた医師の作品と比べて、若いオールド・ミスが注意深く織り上げた人工的な物語を聞かされる観があった。マンスフィールドは低アルコールビールのようなものだった。水を飲むほうがまだマシだ。その点、チェーホフは水のように澄んではいるものの、水ではなかった。ジャーナリスティックな文章としか思えない作品もあったが、素晴らしい作品もあった。(p.184)


移動祝祭日 [ アーネスト・ヘミングウェイ ]

*1:「小さな逃亡」。