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ほんのむしがなぞったことば

2009-01-29越境する言葉

[]#360

日本からニューヨークへ行くようになって、ニューヨークの郊外に住んで、「都会」としてはニューヨークしかなかった頃には一度も感じなかった魅力を覚えるようになった。

その魅力はノスタルジヤやなつかしさとはほとんど関係がない。ニューヨークは奇妙なほどにぼくの目に輝きだした。

きわめてシニカルニューヨークの友人にその話をしたら、「こんな街がおまえの目に輝くのは、おまえが犯罪とゴミと、第一次世界大戦前から一度も修理されていない水道パイプと毎日戦わなくてすむからだ」と言われた。

そんな意見は、アメリカから日本へと、あらゆる機会をつかんで何度も何度も飛んできていた頃に、あるシニカル東京人から言われた「おまえは朝から晩までサラリーマンの生活をしなくてすむからこんなゴミゴミした街に魅力を感じるのだ」といういやみと、どこか類似しているところもあるかもしれない。

(略)

しかし、ニューヨーカーの反論の中には、「実生活が不便」とか「家賃が高い」とかいう東京人の「苦情」とはまた別の響きがある。マンハッタン人の、自分たちの生活環境をめぐる自虐的なユーモアの中には、「実生活」というものの具体性を否定している響きがある。ニューヨークの「輝き」は抽象化された生活のつやである。ストレートにほめるとすぐ反論をぶつけてくるという辛辣なシニシズムも、きっと「具体」をよけるための修辞の戦略に違いない。ニューヨーカーは、本当は1919年ベルサイユ条約この方修理されていない水道パイプを大した問題だとは思っていないだろう。

若い頃、ぼくはそんな中傷的な輝きから逃げることばかりを考えていた。日本語の具体性、特に日本語の長くて入りくんだ歴史の中で抽象をきらい、抽象の器としての看護を排除した「大和ことば」、いわゆる「和文脈」に魅かれた理由の一つには、それがニューヨークの光から最も遠いものとして感じられたかもしれない。

ニューヨークからは短篇小説も長編小説も現代詩も生まれる。俳句も生まれるかもしれない。しかし、短歌だけは生まれない。(p.3-5、ゴシックは原文では傍点)

ぼくにとっての日本語の美しさは、青年時代におおよその日本人が口にしていた「美しい日本語」とは似ても似つかなかった。日本人として生まれたから自らの日本語の特性として日本語を共有している、というような思いこみは、ぼくの場合、許されなかった。純然たる「内部」に、自分が当然のことのようにいるという「アイデンティティ」は、最初から与えられていなかった。そしてぼくがはじめて日本に渡った昭和40年代には、生まれた時からこのことばを共有しない者は、いくら努力しても一生「外」から眺めて、永久に「読み手」であることが運命づけられていた。母国語として日本語を書くか、外国語として日本語を読んで、なるべく遠くから、しかしできれば正確に、「公平に」鑑賞する。

あの図式がはじめて変わったのは、もちろん、ぼくのように西洋出身者が日本語で書きはじめたからではない。その前に、日本の「内部」に在しながら「日本人」という民族の特性を共有せずに、日本語のもうひとつ苛酷な「美しさ」をかち取った人たちがいたからだ。(p.14-15)

「外」から日本に入る結果として、その「日本」について日本語で書くとき、二つのテーマがどこか、必然的に、浮かび上がってくる。一つは広い意味での「言霊」――日本語のアニミズムの深層――であり、もう一つは広い意味での「排他」――あらゆる共同体に付随する「内」と「外」をめぐる執拗な差別性――である。一つのテーマは本質的に「詩」、もっと正確にいえば「歌」と共通するものであり、もう一つは本質的に「政治」。あるいは最近の西洋のノンフィクションの大きな部分を占めてきた「日本論」と通底するものである。一つは、三島由紀夫的に「右」でなければならない、とすれば、もう一つは、在日朝鮮文学的に「左」でなければならない。今、その二つの要素がなければ「日本にいる」ことを書いた文学は成り立たない、とぼくは思っている。特に、西洋出身者が「日本」を書く場合、「詩」へ傾けすぎると小泉八雲のレベルに陥りやすく、「排他」を英語で書けばたとえばウォルフェレンが象徴するような「日本論」のたぐいになりかねない。文化肯定と民族主義批判という、一見相容れないような二つのプロジェクトをある緊張感をもって同時に行なうことを可能ならしめるのは、小説という形式だけではないだろうか。

単一民族」という幻想の下で、日本国内の言論における「日本像」が妙に日本人自身が小泉八雲に扮したかのような自己オリエンタリズムに陥った時代。そして経済大国の出現によって、ウォルフェレンが代表しているような「システム」批判が西洋の「日本像」の大部分を占めるようになった時代。そんな時代に、ぼくの小説が船出してしまったのである。(p.44-45)

1980年代後半、日本語は外からの越境者との関係のなかで、さらに豊かになるだろうと考える日本の文学者が、少数ながら現われはじめた。中上健次のように、「おまえも一緒に書け」とぼくを焚き付けておきながら、作品に容赦ない批判を浴びせた人もいた。日本語に対するガイジンの思い込みにすぎないという中傷は一度も聞かなかった。二十年近く日本語を書けない欲求不満のかたまりでいたぼくにとって、それはいちばんうれしいことだった。

文学の世界では、文化の外から内へというこの越境の動きが、地球上のあちこちでほぼ同時に起こった。英文学では、サルマン・ラシュディカズオ・イシグロ、ベン・オクリといった、アングロサクソンの一員でない作家たちが、生粋のイギリス人として生まれた作家よりも独創的な作品を発表するようになった。日本人の多和田葉子ドイツ語で小説を書き、「私はドイツ語の歴史をつくっている」と発言した。彼女のコメントを感動をもって読んだのは、ぼく一人ではなかったはずである。

さらに正確を期していえば、越境は、ある文化の外部にいる者にだけ起こるのではない。日本人として生まれた人でも、日本語を書くためには、一度「外国人」にならなければだめなのだ。「当たり前な日本語」の「外」に立って、自分の言葉に異邦人として対する意識をもたなければよい作品は生まれない。(p.161-162)


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