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ほんのむしがなぞったことば

2009-02-04くるくると輪になって

[]#363

一人の若い女性が店に入ってきて、窓際の席に腰を下ろした。とてもきれいな娘で、もし雨に洗われた、なめらかな肌の肉体からコインを鋳造できるものなら、まさしく鋳造したてのコインのような、若々しい顔立ちをしていた。髪は烏の羽根のように黒く、頬に斜めにかかるようにきりっとカットされていた。

ひと目彼女を見て気持が乱れ、平静ではいられなくなった。いま書いている短編でも、どの作品でもいい、彼女を登場させたいと思った。しかし、彼女は外の街路と入口双方に目を配れるようなテーブルを選んで腰を下ろした。きっとだれかを待っているのだろう。で、私は書きつづけた。

ストーリーは勝手にどんどん進展していく。それについていくのがひと苦労だった。セント・ジェームズをもう一杯注文した。顔をあげるたびに、その娘に目を注いだ。鉛筆削り器で鉛筆を削るついでに見たときは、削り屑がくるくると輪になってグラスの下の皿に落ちた。

ぼくはきみに出会ったんだ、美しい娘よ。きみがだれを待っていようと、これっきりもう二度と会えなかろうと、いまのきみはぼくのものだ、と私は思った。きみはぼくのものだし、パリのすべてがぼくのものだ。そしてぼくを独り占めにしているのは、このノートと鉛筆だ。

それからまた私は書きはじめ、わき目もふらずストーリーに没入した。いまはストーリーが勝手に進むのではなく、私がそれを書いていた。もう顔をあげることもなく、時間も忘れ、そこがどこなのかも忘れて、セント・ジェームズを注文することもなかった。セント・ジェームズにはもう飽きていて、それが意識にのぼることもなかった。やがてその短編を書きあげると、ひどく疲れていた。最後の一節を読み直し、顔をあげてあの娘を探したが、もう姿は消えていた。ちゃんとした男と出ていったのならいいな、と思った。が、なんとなく悲しかった。

その短編を書き終えたノートを内ポケットにおさめてから、ボルテュゲーズ牡蠣を一ダースと辛口の白ワインをハーフ・カラフで持ってきてくれ、とウェイターに頼んだ。短編を一つ書き終えると、きまってセックスをした後のような脱力感に襲われ、悲しみと喜びを共に味わうのが常だった。これはとてもいい作品だという確信があった。が、その真価が本当にわかるのは、翌日それを読み返したときなのだ。(p.16-18)


移動祝祭日 [ アーネスト・ヘミングウェイ ]

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